第二章 韓国留学

 

韓国に興味

 私の通っていた大正大学は、韓国のソウルにある仏教系大学の東国大学と姉妹関係を結んでいました。そして、交換留学の制度があり、多くの留学生が韓国から大正大学に来ていました。仏教学のレベルでは、日本が世界一と言ってもいいほど、日本の仏教学は進んでいます。初めて仏教が日本に伝わったのは、朝鮮半島からですが、今では反対に、韓国は過去の儒教政策による仏教弾圧や、数々の戦争などにより、あまり仏教は盛んでなくなりました。そこで、韓国の多くの僧侶たちが、留学生として日本に来て仏教を学ぶようになっているのです。

 そのように、大学院にも韓国から来た留学生のお坊さんが何名かいました。私は、そのうちの一人である崔さんというお坊さんと親しくなりました。その人は私よりずっと年上の方でしたが、とてもお坊さんらしい、穏やかで優しい人でした。そして私は、崔さんと話をしているうち、だんだんと韓国に興味を持ち始めました。

 大学の学部卒業の時、いわゆる「卒業旅行」として中学以来の親しい友達とアメリカに旅行しました。その時、日本語の通じない中で、日本語しかできない自分に不安を感じ、それ以来、何か一つは外国語を身につけねばと思っていました。しかし英語はどうも苦手で、また誰でも学んでいる英語には特別興味を持てませんでした。

ところが、韓国語は日本語と文法も似ていて、学び安そうに思えました。また、韓国語を学んでいる人も多くないようですし、これは習ってみてもいいのでは、という気になりました。そこでさっそく、カルチャーセンターの韓国語講座に通い始めました。やはり始めてみると、それは実におもしろく、またその教室の人たちと親しくなるのも、新たな刺激をもたらしてくれました。私にとって韓国語の勉強は、「人生の意味」を求めて迷い疲れていた心を慰めてくれるものとなりました。

 やがて、その韓国のお坊さんの崔さんに連れられて韓国を訪ね、崔さんが住職をしているお寺に泊めてもらったり、観光させてもらったりもするようになりました。韓国の人はみんな親切でした。そして韓国という国は、何か私に新たな道を備えてくれる所に思えました。

 そしてやがて、二、三カ月に一度の割合で、自分一人で韓国を旅行するようにもなりました。そのように、私はどんどん韓国にのめり込んでいきました。ちょうどその時は、ソウルオリンピックの直前で、韓国も活気と期待に満ちていました。

 

韓国留学

 大学院の修士課程は何とか卒業しましたが、もう本格的に仏教研究に没頭する気持ちはなくなりかけていました。いくら努力しても、また悩み続けても、「人生の意味」はわかりません。それより、韓国に行きたい、韓国で住んでみたい、という気持ちが強くなっていました。さらに大学院の博士課程まで進みはましたが、頭は韓国のことで一杯でした。

 そんな私に、ある教授から、韓国に留学してみては、という話しが来ました。大正大学は韓国の東国大学と交換留学の制度があるといっても、韓国から日本に来る学生は多いのですが、日本から韓国に留学を希望する学生は全くいませんでした。それでは交換留学が成り立ちません。したがって、何とか韓国に送り出す学生はいないかと、大学側も探していたのです。私は、願ってもない話とすぐ承諾し、一九八九年春、一人で韓国に留学することにしました。交換留学なので授業料は免除で、その上、天台宗から奨学金が毎月十万円ずつ出るという、いい条件での留学でした。

 

韓国での生活

 私は、キムチをはじめとして、韓国料理の辛いものが苦手でした。もし下宿などすると、そこで出される料理をほとんど食べられないことは容易に想像できました。そのため、知人を通してソウル市のはずれにある新興アパート団地の一室を借りました。六畳ほどの部屋一つと台所とバス、トイレの付いた部屋でした。ベランダもあり、留学生としては贅沢な生活が始まりました。

 東国大学では大学院に留学ということになりましたが、まだ授業を受けられるほどの語学力がなかったので、教授や学生たちとの交流は持っていたものの、授業には初めから出ませんでした。そして、延世大学の中にある韓国語語学堂という、留学生や外国に在留する韓国人のための韓国語学院に通うことにしました。後に、高麗大学の語学堂に移りましたが、どちらでも親切な先生から楽しく学ぶことができました。そして、そこで出会った同じ留学生たちとの交わりも、本当に楽しいものでした。

 生活の方は、自炊なので苦労もありました。日本のように、一人暮らしの人のために少しずつパッケージされた総菜や弁当などは、大きなスーパーに行ってもありませんでした。料理は嫌いではないとはいえ、すぐ嫌気がさしてしまいました。また、一人で食べる食事もおいしくないものです。

 しかし、初めのうちはとても刺激に富んだ留学生生活でした。あんなに住んでみたかった韓国で、憧れを持って歩いた町を、こうしていつでも歩けるのです。物価も安く、経済的心配も何もありませんでした。また、日本にいる時から韓国をよく旅行していた関係で、すでに韓国人の友達も数名いました。

 その反面、「何でわざわざ韓国よりずっと進んでいる日本から留学して来たのか」と、よく韓国の人から聞かれました。確かにあらゆる分野、いや仏教学さえ、はるかに日本の方が進んでいます。日本から韓国に来て学ぶものなどないではないか、と韓国の人さえ言うのです。しかし、私は何よりも韓国に住んでみたかったので、何を学ぶかなどはほとんど問題ではありませんでした。日本にいても、ずっと迷い続けていなければならないことはわかっていました。韓国という異国に来れば、何か道が開けるのではないかという、漠然とした期待もあったのです。それにしても、今から考えても、留学当時は韓国気違いと言ってもいいほど、韓国が好きでたまりませんでした。それはすべての面に及びました。例えば、韓国の歌謡曲も大好きで、毎週テレビのベストテンなどを見て、すぐテープを買い込み、歌詞の載っている本も買って、韓国人よりも詳しくなったくらいでした。そんな私の姿を見て、韓国の友達などはあきれていました。

 もちろん留学後も、日本で親しくなった韓国人留学生の崔さんのお寺にもよく行きました。そのお寺はソウルではなく、大邱という、韓国で三番目に大きい地方都市にありました。その崔さんも、日本での学びを終えて帰っていましたから、いつでも行けば会えました。一度、日本から母と兄が来た時も、崔さんはお寺の信徒さんと共に、実によくしてくれました。

 しかし、そんな楽しい日々にも、やはりだんだん飽きがきました。いくら楽しいことがあっても、自由があっても、心の虚しさは依然としてありました。楽しいことは、一瞬だけ虚しさを忘れさせてくれましたが、ふと気付くと、元と同じ所にいる自分を発見するのでした。そこで経験しなければならなかったことは、「お金や自由があって、夢がかなったとしても、それらは人を本当に幸せにはしない」ということでした。お金、自由、夢、これらは、世の中の人が一番求めていることです。しかし、それらは本当の幸せをもたらさないのです。

 私は、「いったい、僕はここで何をしているのだろう」と思うことが多くなっていきました。少し前までは、喜びと刺激をもたらしてくれたすべてのものが、今では色あせて見えます。いっそ、日本に帰ってしまおうかとも思いました。もともと、何か一つの確かな目的があって留学したのではありませんでした。韓国に行けば何かある、という漠然としたものでした。

 よく一人でアパートの周囲を歩き回ったり、近くの小高い丘に意味もなく登ったりしながら、ため息をつくことが多くなりました。

 

初めて教会へ

そんな日を過ごしながら半年がたち、その年のクリスマスの時期となりました。私は、同じ韓国語語学堂に通う日本の留学生から、教会のクリスマス会に誘われました。その日本の留学生はクリスチャンではないのですが、その人の友達がある教会に通うクリスチャンで、その友達に自分も誘われたから、いっしょに行こうというものでした。

韓国は人口の三○パーセント以上がクリスチャンと言われ、特にソウルの町には教会がたくさんあります。しかし、私は韓国仏教を勉強しに来た僧侶ですから、キリスト教とか教会というものに対しては、初めから興味がありませんでした。ですから、教会が多いとは思っていましたが、入って見ようなどという気を起こしたことはありません。

しかし、さすがにクリスマスが近づくと、どの教会もライトアップされ、まるで建物全体がクリスマスツリーのように美しく輝いていました。そんな中で友達から、いざ教会に行こうと誘われると心が動きました。そこで、一つのみやげ話にでもなるかという軽い気持ちで、行ってみることにしました。

 私は大きな教会を想像して行きましたが、案内されたのは、普通の家を改造した、とても小さな教会でした。少し失望もしましたが、そのクリスマス会は手作りの暖かなもので、良い印象を受けました。まだ韓国語が完璧でない私にとって、もちろん牧師さんの説教もさっぱりわからず、ただそこに座って見ているという感じでした。まわりを見ると、壁に大きくハングルの文字が貼ってあり、それは「うれしい。クジュがいらっしゃった」と読めます。しかし、その「クジュ」と発音される二文字の意味がわかりません。その留学生の知人であるという教会の若い女性に聞いてみると、かなり熱心に「あれは救い主イエス様のことです」と説明し始めるのです。私はその時、なぜこんなに熱を入れて話さなければならないのかと、いぶかしくさえ思いました。

 さて、そのクリスマス会も終わりました。私はソウル市内の交通には詳しかったので、一人で帰れると言って外に出ました。しかし、さっきの女性が駅まで案内すると言ってついて来ました。私は、道は知っているからと断ろうとしましたが、かまわずついて来るのです。そして、「今度、日曜日の礼拝に是非来て下さい」と何度もしつこいくらいに誘ってきました。私はもちろん教会の礼拝など興味もないので、またいつかの機会に、と言ってかわそうとしましたが、全く帰ろうとしません。歩きながら何度も何度も礼拝に来てくれと言います。若い女性に何度も誘われては、だんだん聞いてあげなければ悪いような気になってきます。とうとう、礼拝に行くことを約束してしまいました。

 そして、次の日曜日、約束通り教会に一人で向かいました。教会に入るや否や、とても歓迎されました。しかし、礼拝そのものは初めから終わりまでさっぱりわかりません。韓国語の実力が不十分ということもあったのですが、生まれて初めて参加する礼拝ですから、もしあれが日本語だったとしても、何が何だかわからなかったでしょう。

 やがて礼拝が終わると、今度は食事をして行きなさいということになり、別の部屋の席につきました。すると、じっと固くなって座っている私に、その教会の執事だという男性が来ました。私と同じ年の、名前が鄭さんという人で、教会の青年会の会長もしているとのことでした。そして、青年会で聖書の勉強をしているが、いっしょにやらないかと誘ってくるのです。

聖書は以前、一度読もうとしたことはありましたが、やたら人の名前ばかりが並んでいたり、結局どういう意味かわからない文章ばかりで嫌気がさし、すぐやめてしまいました。しかし、一度は宗教的教養として読まなければならないとは思っていました。また、もちろんすべて韓国語でやるのですから、何よりも韓国語の勉強になります。これは一石二鳥です。そこで、けっこう気楽にやってみることに決めました。こうして週に一度、その教会で聖書の勉強を始めることになったのでした。その時には、神様を信じたいとか、イエス・キリストがどうのこうのという気持ちなど全くありませんでした。

 

聖書の勉強

 その聖書の勉強は、導くリーダーが一人と、学ぶ人が一人か二人という小グループに別れ、テキストを使って進めていくものでした。私には鄭執事さんがリーダーとしてついてくれて、一対一でやることになりました。

 その学びは体系化されたしっかりしたもので、まず予習するように四~五枚のプリントが渡されます。びっしりハングルで書かれた文を読んで、そこにある問題を解いて準備しなければなりません。問題は聖書を見ればすぐにわかるものでしたが、その文章を全部読むことは大変でした。辞書を片手に一つ一つの単語を調べながら進んでいきました。時間はたっぷりあったのですが、予習だけで一日以上はかかりました。

 しかし、さらに重要なのは、勉強が終わってから書く「感想文」でした。一つの学びが終わるたびに、その内容を要約し、続いてそこで感じたことなど、何でも心の内にあるものを書くということをしなければなりません。そして、それを次の勉強の際、リーダーの前で読み上げるのです。そればかりではなく、日曜日の午後にある青年会では、一回に一人、順番にみんなの前に立ってそれを発表していました。

 また、聖書の勉強ばかりではなく、鄭執事さんはたびたび自分の家に私を招いて食事を共にしたり、聖書の話しをしてくれたりしました。鄭さんは私と会う二カ月前に結婚したばかりの新婚さんだったのです。奥さんもきれいな方で、とても親切にしてくれました。私は遠慮もなく招かれるままに行っては、新婚家庭の愛のこもったおいしい食卓に同席させてもらっていたわけです。多い時には週に二、三回もおじゃましていました。家庭の味から離れている一人暮らしの留学生にとっては、何よりうれしいことでした。

 また聖書の勉強は、最初から興味深いものでした。私は、聖書を本格的に学ぶのは初めてですから、聖書の初めの『創世記』から勉強が始まりました。

「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記一章三一節)

 『創世記』の第一回目の勉強で、神様は初めに天地万物を造られ、造られた物すべてをご覧になって大変喜ばれたということを学びました。すべての物は神様の栄光を現わすために、大変すばらしいものとして造られたのだと教えられました。

これは私にとって、非常にショッキングなことでした。仏教では、この世は空しく実体がないと教えていますが、聖書では全く逆に、初めからすべてを肯定的に表現しています。何か、新しい世界を垣間みた、という感動を覚えました。そして、「この聖書の中には何かがある。僕が求めていた人生の意味、真理がわかるかもしれない」と思いました。

 教会の牧師さんも、とてもやさしく私を導いてくださいました。仏教を批判的に語るようなこと一切なく、お祈りをもって支えてくださっていました。相変わらず、礼拝の説教などは理解できませんし、どうやってお祈りしていいかもわかりませんでしたが、牧師さんや鄭執事さんがその都度、いろいろ教えてくれました。そしていつの間にか、自分も本当に神様を信じたいという気持ちになっていったのです。

 

感想文

 このように、順調に進んできた聖書の勉強も、やがて壁にぶつかるようになりました。聖書では、私たちはみな罪人であると説きますが、私はどうしても自分が罪人であることがわかりませんでした。今まで一生懸命に生きてきたし、完璧とは言えないまでも良い人間の部類には入るだろし、刑務所に入れられたこともない私が、なぜ罪人でなければならないのか、受け入れられないことでした。頭では、罪人であると認めなければならないか、とも思うのですが、心が絶対に受け付けませんでした。

ですから、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかってくださった、ということを聞いても、何かおとぎ話のような、自分とはいっさい関係のない話のように思えるのでした。そんなわけで、もう教会に行くのも、聖書の勉強をするのも、終わりにしてしまった方がいいと思うようになっていきました。

 そこで、「もうこれですべて終わりにしたい」という内容の手紙を書き、鄭さんに送ることにしました。お世話になってきたので、とても直接言い出せることではなかったのです。

早く届くように、郵便局から速達で出しました。ところが、郵便局から帰って来て部屋に入ったとたん、電話が鳴りました。なんとその鄭執事さんからでした。今日の夜、聖書の勉強を家でやりたいから来てほしいということです。まさか今断わりの手紙を出したところだとも言えず、仕方なく行くことにしました。速達だから、明日の金曜日あたり手紙が行くかも知れない、読んだらまた連絡があるだろう、と思って手紙のことは口に出しませんでした。

 こうして、鄭さんのお宅で夕飯をご馳走になってから聖書の勉強をしました。ところが、その時に限って「悔い改め」について学んだのです。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ一章一五節)

 そして鄭さんから、この学びの感想文を書いたら、次の日曜日の青年会で発表するように言われました。さすがにこれには困りました。自分が罪人であることがわからないのですから、悔い改めもできません。何が罪であるのかさえ、ピンときません。

 さて、速達で出したはずのあの手紙は、不思議なことに土曜日になっても鄭執事に届いていないようでした。それどころか、土曜日にまた、鄭さんの家に行って感想文を完成させることになりました。鄭さんは銀行員ですが、その日の土曜日は仕事が休みだったのです。

 さて、私は聖書の勉強の要約は書けても、肝心の感想が書けません。何度書いても鄭さんには、「もう一度書いて下さい」と言われるだけでした。心の内を書くことができないのですから、自分でも不十分な内容であることはわかりました。仕方なく、気分転換に鄭さんご夫婦と近くの公園に行き、バトミントンなどをやったりしました。ちょうど、韓国にたくさんあるレンギョウ、韓国語では「ケナリ」と言いますが、その黄色いかわいらしい花が咲き始めた、暖かな3月の日でした。

 

悔い改め

 しかし、その土曜日も夜になってしまいました。鄭さんは、今日はこのまま泊まって、明日の日曜日はいっしょに教会に行こうと言うので、そのまま鄭さんの家にいました。夜遅くまでかかって感想文を完成させようとしましたが、いつまでも白い紙をただ眺めているような時を過ごし、とうとうあきらめて寝てしまいました。

 次の朝、まだ教会に行くまでには時間があったので、また感想文を書こうと試みました。しかし、どんどん時間が過ぎていき、間もなく朝食をいただいて教会に行かねばならなくなりました。

 そこで、もう開き直りました。もし、私が悔い改めたらどう言うだろうかと考えてみました。「神様、お赦し下さい。私は罪人です。」と言うだろう、と思いました。さっそくそれを一行、紙に書いてみました。すると、不思議に次から次へと悔い改めの言葉が出てきました。「神様、私は今まで神様を無視して来ました。どうぞお赦し下さい。赦されるような者ではありませんが、どうかあわれんでください・・・」というような文章が続くのです。私は追いつめられていますから、文章を取捨選択する余地もありません。文章なら何でも書いてやれ、というような気持でしたので、思い浮かぶまま、次々に書いて行きました。そして気が付いてみると、一枚の紙いっぱいに悔い改めの言葉が書かれてありました。

 しかし、その時は何にも感じることはなく、ただ「やっと書けたか」というようなホッとした安堵感しかありませんでした。やがて鄭執事さんとタクシーに乗って、雨の降る中、教会に向かいました。車の中で鄭さんは、私の書いた感想文を読んでいました。すると突然、「松岡兄弟にも、とうとう、この日が来ましたね。」と感慨深く言い始めました。さらに、「今降っている雨が、兄弟にとって記念となりましたね。」とも言いました。私は言っている意味がわかりません。感想文を書いても、私自身には何の感動もなかったのです。「この人はいったい何を言っているのだろう」としか、その時の私には思えませんでした。

 やがてその日の主日礼拝も終わり、午後の青年会の時間になりました。私は講壇の前にある小さな壇(聖餐台)に立ち、持って行った感想文を読み始めました。学びの内容を要約した部分は、普通にただ読み進めて行きました。聞いている牧師先生さえ、ちょっと退屈そうな表情を浮かべるほど、内容の薄いものだったようです。

 そして、悔い改めの文の所まで来ました。私は、「神様、お赦し下さい。私は罪人です。」と一行目を読みました。ところがその時です。急に涙が溢れ出て、私は大きな声で泣き始めてしまったのです。同時に、体から力が抜けたようになり、前にあった壇の上に突っ伏してしまいました。自分自身でも驚きましたが、涙を止めることができません。泣きじゃくりながら続きを読むしかありませんでした。「神様、私は今まで神様を無視して来ました。どうぞお赦し下さい。赦されるような者ではありませんが、どうかあわれんでください・・・」。

 やっとの思いで、最後まで読み終えました。しかし、どうしたことでしょうか。その時私は、今まで味わったことのない、大きな喜びに満たされていたのです。私は、「神様は確かにいらっしゃるのだ」という、驚くべき感動に満たされていました。たとえ全世界の人が神様を否定したとしても、私一人になっても神様はいらっしゃると言える、というほどの確信がありました。私が長い間求めていた真理、人生の意味がその瞬間に明らかにされたのです。神様がいらっしゃることがわかったことで、すべてが解決したのでした。

また、聖書は神の御言葉である、という確信が与えられていました。今までの自分の持っていた聖書が、全く違った尊いものにさえ見えました。悔い改めた瞬間に、私の内側がすべて新しくされたのです。

 さらに、「私は必ず天国に行ける」という確信もありました。それは当然である、と言えるほどの動かない確信でした。ですから、私はその時以来、死ぬのが怖くなくなりました。確かに、死ぬ前に病気などで苦しむのはいやですし、それはなるべく避けたいですが、いざ死んでしまえば、言葉に表現できないほどのすばらしい天国に私は行けるのです。これほど安心できることは、他にはありません。

さて、私が涙の悔い改めをしたので、牧師先生はじめ、集まった青年会の人たちも同じく感動していました。そして、続いて牧師先生のメッセージがありましたが、その中で、「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」(使徒一三章四七節)の御言葉が語られましたが、その御言葉が、なぜかとても私の心に響きました。まるで、神様が直接私に語って下さっているようでした。その日は一九九○年三月十日でした。

 その晩、私はあまりにも喜びに満たされているので、眠ることができませんでした。午前二時ごろ、仕方なく起きて聖書を開いたりしていました。そして、何気なく次のようなお祈りが出てきました。「私の一挙手一投足すべてが神様の栄光でありますように」。するとその時、頭の上から、肉体の耳ではなく、魂に響いてくる声がしました。「あなたの名前は、すでに天に記されている」。これには驚きました。あわててノートにその言葉をメモしたので、今でもはっきり覚えています。

 

喜びの毎日

 もう次の日からは、見るもの触れるもの、すべてが光輝いているようでした。うれしくてうれしくて仕方ありませんでした。韓国語の教室に行っても、授業の妨害になろうがどうであろうが、先生や学生たちに、「私は神様を信じて、救われた。今とてもうれしい。」と、しゃべりまくりました。会う人ごとに、そのよろこびを話したのです。みんな、「どうしたんです。何があったのです」と、ただ驚くばかりでした。「松岡さんはお坊さんではなかったのですか」と言う人もいました。また、ある人などは心配そうに、「神様の話なんかして、いいんですか」などと言ったりしました。さらに、「松岡さんは歩き方まで違った。まるで雲の上を歩いているように見える」と言った人までいました。とにかく、神様を信じて、まるっきり人間が変わってしまったのです。

 部屋にいても、以前は韓国の歌謡曲ばかり聞いていましたが、突然、歌謡曲などには興味がなくなってしまいました。その代わり、どんどん賛美歌のテープを買ってきては毎日聞き、二日に一曲くらいの割で覚えていきました。アパートの隣の人も、私の部屋から聞こえてくる曲が、ある日突然、歌謡曲から讃美歌に変わってしまったので驚いていました。

 ちなみに、私が鄭さんに出した、「聖書の勉強をやめる」という内容の手紙は、郵便局の手違いがあったのか、かなり遅れて、私が悔い改めて救われた日曜日の三日後の水曜日に届きました。そして、鄭執事さんから「今日、手紙が来ましたけど」と、半分笑いながらの電話が来ました。「捨てても良いでしょう?」と言うので、私は答えました。「ええ、もちろんです」。

 

イエス様との出会い

 その後、さらに私は「私を救ってくださったイエス様をもっと知りたい。直接会ってみたい」という願いを抱くようになりました。そこで、その祈りをもって、教会の早天祈祷会へ通うことにしました。

 韓国の教会の早天祈祷会は、毎日朝五時からです。私は午前四時に起きて、バスも電車もないのでタクシーに乗り、毎日通い続けました。風を引いて熱がある時も休みませんでした。祈祷会ではただ「イエス様に直接会わせてください」という祈りを続けました。ひたすら、今日会えるか、明日会えるかという期待を持って通っていたのです。

 やがて四月に入り、次第に暖かくなり、枯れ枝には黄緑色の美しい新芽が見られるようになりました。そんなある日、やはり早天祈祷会から帰って来て、何気なく聖書を開いて見ていました。ちょうど、マルコの福音書の一○章四五節が目に入りました。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 私は、アッと思いました。「そうだ。今まで私は、イエス様はどこにいるのか、という感じで探していたけれども、それは間違っていた。イエス様のほうから私の方へ来てくださるのだ。」ということがわかったのです。頭でわかったのではなく、魂の奥底からわかったというような感じでした。イエス様は私の奴隷のようになってまで、私に仕えて下さる方なのです。その時、本当に私に仕えていらっしゃるイエス様に出会うことができました。肉体の目で見るのではなく、霊の目と言ったらいいでしょうか、もう一つの目ではっきりイエス様を見ることができました。本当に、私の傍らに身を低くし、私に仕えるようにしていらっしゃるイエス様を見たのです。

 その時、イエス様はおっしゃいました。「わたしは天の父からすべての力を受けている。その力であなたを守るから心配するな。わたしはあなた一人だけのために十字架に掛かったのではなく、多くの人のために十字架に掛かった。しかし、それを余りにも多くの人は知らない。それだから、あなたは出ていって福音を伝えなさい」。

 

多くの反対

 こうしてイエス様から御言葉までいただいては、もう僧侶のままでいることはできない、仏教大学も退学しなければならない、と思いました。それまでは、日本の家族には教会に通っていることを話していませんでした。そこで一時帰国し、家族の前ですべてを打ち明けることにしました。

 何と話そうか、飛行機の中でも考えつつ、久しぶりに実家に帰りました。そして、イエス様を信じて救われ、クリスチャンとなったことを、単純に母、兄、妹に話し(前述しましたように、父は私が大学生のときに、すでに亡くなっていました)、お坊さんはやめる、これ以上、仏教の勉強もやめるということを伝えました。

 しかし母は、真剣には受け止めなかったようです。どうせ私が頭に血を登らせて、また訳のわからないことを言っているのだ、という程度にしか思わなかったのでしょう。「神様を信じてうれしいことは、いいことね。でも、あなたは留学生なんだから、最後までやらないとだめですよ。」という程度のことしか言いません。しかし、私は仏教大学にはもう行かないことを告げ、また韓国に帰りました。

 それからは、もう仏教大学には顔を出さず、教会へ通い、聖書の勉強に没頭し始めました。それでようやく、母も私が本気であることがわかったのでしょう。さっそく、妹と二人で韓国に飛んで来ました。

 そして、私をソウル市内のホテルに呼び出しました。行ってみると、驚いたことに、私がだいぶお世話になった仏教大学の教授や、親しくしていたお坊さんたちがいました。「これは説得するため、母が呼び出したな」と、とっさにわかりました。しかし、私はもう多くは語るまい、神様にすべてをまかせようと決心しました。話しが始まると、仏教大学の教授は、さんざんキリスト教の悪口を言い、あなたは牧師にだまされている、気が狂っている、目をさましなさい、などと感情をあらわにして言ってきました。また、お坊さんの方は、逆にとても穏やかに、「あなたが、イエス・キリストを信じて救われたというのは、いい宗教的体験をしました。その経験を生かして、お坊さんとしてがんばりなさい。」などと言っていました。その他にもいろいろ言われましたが、私は救いを実際に経験しているのですから、誰が何と言おうと私の確信は揺るぎません。何を言っても動じない私を見てあきらめたのでしょうか、時間も遅くなったと言うことで、みんな帰って行きました。

 しかし、母はあきらめません。その時からは、母や、また他のお坊さんなどから多くの反対を受けました。何よりも、以前に仲が良かった人や、大変お世話になった方たちから悪いことを言われるのは、私としても恩を仇で返しているような気がして辛いものでした。個人的には、もちろん何も恨みなどあるはずかなく、むしろ感謝しているのです。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ五章一一-一二節)

「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ一○章二九―三○節)

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」( テモテ三章一二節)

  反対や迫害の中で、これらの聖書の御言葉は本当に大きな力となりました。そして、苦しみを受ければ受けるほど、心には喜びが増し加わるという経験をしました。「このように迫害にあっているのは、私が聖書の御言葉通りに生きている証拠なのだ」、という大きな喜びが涌いてきました。

 ですから、いくら辛いことがあっても、決して動じませんでした。そのような私の姿を見て、さすがに母も次第に反対しなくなりました。あきらめた、と言うより、疲れはてた、という感じなのでしょう。確かに、母はイエス様のすばらしさを知らないのですから、私が単にわがままを通しているとしか目に映らなかったはずです。

 

日本に帰国

 このようなことで、やがて大学にも退学届けを出し、ひとまず一段落つきました。

 それからは、専ら韓国語学院に通い、教会の奉仕などに力を注ぎました。そして、このまま韓国で生活し続け、できれば神学校に通いたいと思っていました。実際、牧師先生といっしょに神学校を訪ねたこともありました。しかしそこでは、外国人を対象としたクラスはあるものの、その授業は英語だそうで、私は英語がだめなので韓国語の授業に出たいと希望しましたが、外国人が韓国語の授業を受けた前例はないとして、断られました。

 そのように、なかなか次ぎの道が開けず、いたずらに時間ばかり過ぎていきました。 私はこのような中で、これからの進むべき道もわからず、ただ何となく毎日を過ごしているような気になってきました。そして、聖書の勉強を続けていても、いい感想文は書けないし、形式的になってきたようで充実感がありません。もう、ここにいても仕方がないのでは、という思いが大きくなってきました。そして、とうとう決心し、日本に帰ることを決心し、1991年の春、日本に完全に帰国することにしました。