僧侶から牧師へ

 第一章 寺の生活

 寺に生まれる

 私は一九六二年(昭和三十七年)、東京都台東区谷中にある、天台宗の寺で生まれました。

 その寺は、江戸時代の初期にはすでに存在していた記録があるほどの、歴史のある寺です。父で11代目の住職になるそうです。

 谷中は、徳川幕府によって寺町として形成され、ひとつの町に大小合わせて約90件の寺がある所です。

 私の血筋としては、栃木県の農家出身で僧侶となった曾祖父からこの寺に住むようになったといいます。私が生まれた時は、もちろん曾祖父はいませんでしたが、祖父は健在でした。すでに私の父が住職でしたが、祖父は僧侶として最高位の大僧正にまでなり、檀家をはじめ、多くの人たちから尊敬を集めていました。ただいるだけでありがたい、と言われるような雰囲気があり、それでいてとても穏やかな人でした。私が高校生の時、長寿を全うし、 90歳で亡くなりました。また、祖母もやはり長生きし、私が20歳前後の時、90歳で亡くなりました。

 父はもちろん住職をしていて、母は、普通の家庭の出身です。私は次男です。二つ上に兄がいて、六つ下に妹がいます。

 私はもともとおとなしい、のんびりした性格でした。母がよくするエピソードがあります。ある日、家に泥棒が入って、母はその泥棒とパッタリ顔を合わせてしまいました。母もあわてましたが、泥棒も一目散に逃げていきました。それを追って、母は玄関も開けっ放しで表に飛び出し、そのまま交番に直行しました。その時、幼い私はといえば、居間でぬいぐるみといっしょに遊んでいたそうです。それから一時間ほどして、交番にいた母は、私がそのまま家にいることをハッと思い出して、あわてて家に戻りました。ところが、私は依然として同じ場所でぬいぐるみと遊んでいたそうです。

 しかし、よくいたずらもしたそうです。特に、近所にいた一つ下の友達ができてからは、その子といっしょに本当によくいたずらをしました。池のめだかをすくっては、墓地の一つ一つの花筒に入れてあるいたり、寺に来たお客の靴をみんな木に掛けてしまったりしたことを、今でも覚えています。近所の子供たちはみんなそうでしたが、谷中の墓地一帯が、子供たちのいい遊び場でした。

 また、私は運動が全くだめでした。小学校の時から、体育の時間が大嫌いで、何とか理由をつけて見学にしてしまったことがよくありました。特にプールは恐怖の時間で、かなり長い間、ほとんど泳げませんでした。

 今でこそ、学校のいじめが問題となっていますが、実は私も中学の時にいじめにあいました。しかし、暴力を振るわれるようなことはなく、もっぱら精神的な、陰湿ないじめにあいました。原因はわかりません。「ボーズ、ボーズ」と言われ、仲間外れにされたり、私が行くとみんな逃げていったりというパターンが多かったです。僧侶の息子という理由でいじめられたのではありません。なぜなら、同じく寺の息子はまわりにも何人かいましたが、まったくいじめられてはいませんでした。

  このいじめは、中学校の後半になればなるほどひどくなりました。中学1・2年の時は成績もよかったのですが、高校受験をひかえた3年になった頃は、いじめによる精神的ストレスで急に成績が落ち、希望する高校にも行けなくなりました。

 さて、寺の息子だからと言っても、兄も私も、幼い時からお経を覚えさせられたりすることはありませんでした。しかし、中学生の時、「得度(ルビ:とくど)」を兄といっしょに受けました。得度とは僧侶になる儀式です。その時は祖父が元気でしたので、祖父が執り行ないました。まだ何もわからない時でしたので、単に親の言いなりで受けたようなものでした。本来は頭を丸めなければならなかったのですが、かたくなに拒み、スポーツ刈り程度にしたことを覚えています。しかし得度をしたからといっても、特に生活が変わったことはありませんでした。しつけの面などは父も母もきびしいほうでしたが、将来坊さんになるのだからという特別な教育は全くなされませんでした。

 しかし、やはり兄が将来寺を継ぐため、仏教大学である大正大学仏教学部に入学し、頭を丸めて僧侶としての道に入りました。兄も積極的になりたいと決意したと言うより、跡継ぎだからという理由があったらしいですが、なるからには真剣にやろうという決心は伝わってきました。

 

大学時代

 私は次男ですから、僧侶になって寺を継ぐ必要はありません。得度はしても、それで絶対に僧侶になることに決まるわけでもありませんでした。

私も初めは、長い間書道を習っていたこともあって、書道の先生にでもなるか、と思っていました。ところが、大学の受験の頃になって考えが変わりました。その頃から、「自分は何で生きているのか、生きる意味は何か」ということを考え始めるようになっていました。それがわからなければ、すべてのことが虚しく思えて仕方がありませんでした。

 そのように、人生について真剣に悩むようになった原因は、やはり中学生後半のいじめにあった経験からだと思います。なぜ自分だけいじめられなければならないのか、何でこんなに苦しみながら生きていかねばならないのか、というように、いつも心の中で問いかけ、関心が自分の内側へと向かっていきました。

 それで、わからないなりにも哲学書などを読んでみたり、いろいろ考えてみたりもしましたが、わからなくなる一方でした。まわりが受験だ受験だと言って、一生懸命になっていても、自分が何で生きているのかわからないのに、なぜあんなに一生懸命になれるのかと疑問に思ったりしました。そこで、それでは私も僧侶の道に入って人生の問題を解決しようと思い、兄と同様、大正大学の仏教学部に入学することにしました。

 僧侶になるための一般的な方法は、その宗派の大学に入学することです。その大学の課程の中には、一般教養と並んで、僧侶になる人のためのカリキュラムが整っています。

僧侶を目指す学生は、一学年目は寮生活をし、朝夕の勤行をしながらお経の読み方や基本的な作法などを覚えていきました。授業でもそれらを習う時間があり、かなり集中的にいろいろ身につけていきました。私はそのようなお経の読み方だの作法だのにはあまり興味がなく、それより仏教哲学に大変興味を持ちました。天台宗の僧侶になる者はその教義である天台学を学ぶのですが、天台学は仏教哲学の代表です。その厚い本を前にしただけで、何かがこの本の中にあって、私の疑問に答えてくれるはずだという思いがわいてきました。また、天台宗に限らず、多くの仏教書を買っては読み漁っていました。

 しかし、同じく寮生活をしている仲間の中に、仏教の中で人生の問題を解決しようと求めている人はいなかったようでした。寺の長男だから、寺を継ぐために大学に入った、やりたいことは、もっと他にあったのに、というような人が多かったです。そのために、人生の問題などについて、心を開いて語り合い、励ましあう友達はできませんでした。私一人が部屋の机に向かって本を読んでいて、みんなそれを煙たがって、私の部屋に来る人はほとんどいなくなるほどでした。

 大学二年生の時、父が急に癌でなくなりました。六十六歳でした。ちょうど兄が大学四年を卒業する時だったので、卒業と同時に兄が住職になりました。生前、父は兄といっしょに法事ひとつしたこともなく、したがって兄は住職になったとはいえ、寺の実務のことや檀家のことは全く知らない状態でした。当然、母が住職の代わりとなって動かざるを得ません。しかし兄としては、早く一人ですべてを取り仕切りたいという気持ちがあります。兄と母との争いも絶えませんでした。母は積極的な性格で、父が元気な時から、どんどん何でもやるべきことはこなしており、檀家の家庭の細かなことまで、むしろ父より知っていたようです。

 天台宗の本山は、京都の比叡山です。したがって、定期的に本山に行っては、僧侶になるための修行をしましたが、大学三年の夏には、比叡山に二ヶ月間篭もっての修行がありました。天台宗は総合仏教的な性格を持っていますので、念仏、座禅、密教など多くの修行形態が含まれています。短い期間とはいえ、かなり本格的にそれらを体験した特別な時でした。

 例えば、夜中の二時に起きて水を浴び、闇の中を歩いて少し離れた所にある井戸に、仏に供える水を汲みに行きます。そして、それを仏像一つ一つに供えてから、道場に一日中座って護摩(密教の修行で、仏を供養するため火を焚いて、呪文やお経を唱えるもの)の修行もしました。また、三千仏礼拝(ルビ:さんぜんぶつらいはい)といって、三日間で三千回、仏の名を呼びつつ五体投地(身を地に投げ出して礼拝すること)もしました。筋肉痛の段階などすぐに過ぎ去り、頭がボーッとして、何をやっているのかもわからなくなりました。そして、膝や肘などの皮は破れ、膿が流れだしました。

 

仏教に対する疑問

 しかし、修行を試みつつ仏教を学べば学ぶほど、迷いや矛盾を感じることが多くなってきました。それらをここで、いくつか具体的に挙げたいと思います。

 まず、教義と修行の関係です。仏教哲学は確かに深遠で、とても魅力を感じるのですが、やはり自分のものとするには修行が必要なのです。もともと仏教の哲学的な教義などは、修行の中から、その宗教的体験の中から形成されていったものです。したがって、その宗教的体験がなく、ただ教義などを学んでも、それこそ、カタログだけを手にして品物がないようなものです。仏教の言葉にも、「まるで他人の宝を数えているようだ」というものがあり、修行の欠けた勉学の虚しさを表現しています。

では、修行をすればいいかと言っても、そうするにはそれ相応の環境が必要ですし、特に天台宗で説く修行方法は、現代ではとても実行不可能な修行です。もしできたとしても、数限られたエリートでなければならず、もし限られた人しか修行して救われないとすれば、いったい何のための宗教か、一般の人たちはどうなるのか、などといった疑問が起こります。私にとって、これは解決不可能と思われる大きな問題でした。

 または、経典の権威にも疑問を持ちました。江戸時代までは、すべての仏教経典は、みな釈迦の言葉であると信じられてきました。いわゆる「仏説(ルビ:ぶっせつ)」です。ところが、明治以降、文献学などの研究の発達に伴って、仏教経典はほとんど仏説ではない、ということが明らかにされました。これは今では仏教学の常識になっています。しかし、経典に書かれた言葉はすべて釈迦の言葉であり、すなわち真理であるという前提に基づいて、あらゆる仏教の教えが説かれてきたのです。当然、多くの開祖、祖師、高僧と呼ばれる人物は、仏教経典の「仏説」を信じて疑いませんでした。そうすると、その基礎である教典の信憑性がないのですから、経典は仏の言葉だ、という信仰によって築かれてきた仏教そのものを、根本的に考え直されなければならないはずです。仏教を学べば学ぶほど、そうした疑問や葛藤が増えていきました。

 また、葬式仏教の現実にも疑問を持ちました。もともと仏教の中には葬式をする要素はありません。修行者は、死人のことなどには関わらず、修行に励むべきであるというのが、釈迦の教えでした。葬式仏教は、寺の経営という現実的な問題が背後にあるのでしょうけれど、あまりにも、釈迦の教えに矛盾しています。

 このように、仏教の現実の中には、真理を求める私を苦しめる要素が多くあったのです。

 

大学院へ

 やがて学部を卒業するときがきました。四年間、よく勉強したということで、天台宗から表彰されもしました。しかし、まだ求めるところの「人生の意味」は全くわかりませんでした。環境も恵まれていることもあって、そのまま大学院に進み、さらに学びを深めようと思いました。

また、その頃になると、一人で法事から葬式まで何とかできるようになったので、住職である兄と共に、寺の仕事も手伝っていました。

 

不思議な体験

 ここで一つ、その大学院で体験した不思議なことを記したいと思います。

 大学院で、そのころ『伝教大師全集索引』を編集していました。そのため、大学院生や研究室のメンバーが中心となって、毎日夜まで大学の研究室に詰めていた時期がありました。

そんなある日、夜になったので、夕飯として近くの中華料理店から出前を取りました。一番下っ端な私は、出前を持って来た店の人といっしょに、隣の部屋で配膳をしていました。そのとき、店の人は春巻きを一つ、床に落としてしまいました。その人は誰も見ていないと思ったか、さっと拾ってもとの皿に戻しました。私はしっかり見ていたのですが、「落としたから取り替えろ」と言うのも気の毒なので、私は黙っていました。しかし、いざ食事が始まって困りました。「あの皿の、あの端にある春巻きは落ちたものだ」と知っているのは私だけです。誰かが食べてしまうのを見るのはやはり嫌なものです。そうかと言って、「それはさっき落ちたものだ」と言えば、誰かが店に文句を言うかも知れません。どうしようかと、いろいろ考えました。その結果、私が食べてしまうのが一番いいのだ、と決心し、わざと落ちた春巻きを食べたのです。

そんなことがあった後、なぜか私の中には、「きっと神様は喜んでくださる」という思いが起きました。なぜ「神様」なのか、今でもわかりません。私はその頃、部屋にも観世音菩薩(通称、観音様)の掛け軸を掛け、『観音経』を唱えたりして、観音信仰をしていました。しかし、そんな中でも「神様」のことを思ったのです。

 そしてその日の夜のことでした。次のような夢を見ました。初め、私は入道雲のようなモクモクとした雲の中にいました。やがて、その雲の中央部分が左右に分かれたかと思うと、下から十字架がせり上がってきたのです。それはガラスか水晶でできているような、透き通った、光輝く美しい十字架でした。それを見た瞬間、「アッ、私は神様を見た」という大きな感動に包まれました。その感動が余りにも大きく、ショックで目が覚めてしまいました。しかし、目を開けて天井が見えてきた時も、その感動はお腹のあたりで渦巻いているような感じでした。「ああ、私は神様を見たのだ」という喜びを伴った不思議な感情が依然としてありました。

次の朝、昨夜の夢のことを思い出して考えましたが、なぜ十字架なのか、全くわかりませんでした。そして、「おもしろい夢を見たものだ」ということで、その後、その夢のことは気にかけなくなりました。